読書6-18『社会力を育てる』Ⅻ

我々は自国の経済を発展させるために、教育を行っているというわけだ。

~「我が国は、より付加価値の高い製品やサービスを提供する高次な経済社会へと経済構造を改革していく必要が生じている」(だから、そのために貢献できる人材を育てなければならない。)【1996年第15期中教審答申】~

自分も長く教員人生を続けてきたが、実のところ、何のために勉強させるのか、その根本のところを深く考えたことがない。「大きくなって困らないように」「自分の夢を実現するため」など適当な言葉を返していた。

この答申から言えることは、文科省は国の機関だから、国のことしか考えないのだ。一国の経済を発展させるために教育がある。教育を受ける子ども一人ひとりのことなど考えていない。経済発展に貢献できる人材が育てばいい。

~何のための教育かをこれほどあからさまに公にした文書は極めて珍しい。それだけにこの答申はこれからの教育を何のために行うのか、またどういう方向に舵を切らなければならないかを考える上で、反面教師としてではあれ、極めて重要な意味を持っている。~

我々は日本という国の発展のために、子どもに勉強を教えているのだ。公務員だから、それは仕方ないのかもしれない。文科省の指示に従って食わせてもらっているのだ。

~これからの教育も、これまでのように産業社会を発展させるための手段として位置付けておいていいのだろうか。人を育てる教育が経済の僕であっていいのだろうか。~

その国を発展させるために教育があるのか、人を育てるために教育があるのか。我が国の学校教育は前者の立場だ。そして、実はその施政者を選んでいるのは、国民だということになる。

~すべての国々が産業社会としての発展を競い合う時代と決別しない限り、紛争や環境問題など様々な多くの問題を抱えた人類社会の将来に光明を見出すことは難しい。産業社会に役立つ人間を育てる教育から脱却し、個々の人々の善き生と社会の健全な発展を両立させる教育へと一刻も早く教育の目標を転換しなければならない時期である。~

現在の我が国の教育が正しいとは思えない。経済の競い合いが、紛争や環境問題を生むこともわかる。が、産業社会ではない健全な社会というのがあり得るのか、現在の教育では、個々人の善き生は実現できないのか、なかなか腹に落ちない部分もある。(R4.8/18記)