読書6-18『社会力を育てる』Ⅳ

「学力」と限定しただけでもいろいろ問題がある。

~日本ではいまだに「学力」とは教えられた知識をどれだけ記憶しているかのことと考えられており、それゆえ、「学力がある」とは、記憶している知識の量が多いことであると理解されている。しかしOECDが想定している学力は、多くの日本人が考えている学力観とはまったく異なるものである。~

要するに日本の学力は「物知り」で世界の学力は「賢さ」だろう。

OECDが想定している学力とは、学校で学び身につけた知識を、これからの社会生活にどれだけ有効に活用し、将来遭遇するであろう様々な問題を自分で考え、さらにほかの人の考えも聞きながら判断し、自分で、あるいはみなと協力しながら問題を解決することができる能力のことである。~

これまで我が国の企業はどんな人間を求めていたか。それは「賢さ」よりも「従順さ」ではないか。企業にふさわしい人材に教育するには、その方がいい。だが、経済成長も止まり、企業は人材を教育する余裕もなくなってしまった。

~日本の義務教育終了者たちのもう一つの特徴とは、どの科目においても、自分で考えなければならない設問や、自分の言葉で答えなければならない設問に対して全く答えない「無答」が多いことである。日本の15歳の若者たちは物事をじっくり考え、そのうえで自分の考えをまとめ、それを自分の言葉でしっかり相手に伝える(答える)という力が不足している。~

自分で問題を見つけ、自分で考えてみなと協力しながら問題を解決する能力が、これからの時代に必要だということはわかる。そのような子どもを育てろとも言われている。だがそこに大きな問題が立ちはだかる。それはクラスの人数の問題だ。我が国は相変わらず35人学級である。知識偏重教育から、自ら考え問題を解決する教育へと変えようとしているのに、世界でもまれな多人数学級のままなのだ。ハード面はそのままで、ソフト面を声高に変えろと言っている。この人数では無理な話ではないだろうか。(R4.8/5記)