読書『心の休ませ方』Ⅶ

今回を最後にしたい。

~「私はお金はないけど健康という素晴らしい体がある。私は美人ではないけど明るさという楽しい心を持っている。私は名誉はないけれどやすらぎの家庭がある」こう考えられるのは生命力豊かな人である。~

これこそまさに「AにもかかわらずB」である。Aがすべてではないのだ。だのに人と比べAであることを嘆き留まっている。Aの状態からどのようにBを見出すかにかかっているのだ。それが生命力だ。

~疲れた今は自分には違う道があったと気が付く機会である。憎しみや敵意があることを自覚すること。自分の感情を認めること。現実を認めること。人を恨んでいる、それを我慢してきた。人に気に入られようと自分を欺いて頑張った。立派な人を演じて生きてきた。確実に心は日々傷ついていた。~

私はいい先生になろう、子どもからも保護者からも同僚からも好かれようとしてきた。それが自分を欺くことであり、自分の心を傷つけてきたのだ。

~生きることに疲れた人は、つねに言葉の裏には「責める」という意味が込められている環境の中で育ったからである。例えば人から何かを聞かれる。軽い意味で相手は聞いている。しかし、その生きることに疲れた人たちは、そういう言葉を軽く受け流さないで、ものすごい重い言葉に受け取る。彼らは何事も気楽に受け止めて生きては来られなかったのである。~

全ての要求に満額回答を出そうとしていないか。過剰勤務をしている先生もそうだ。管理職は、「教材研究をしっかりしなさい」「きちんと授業準備をしなさい」とは言う。だが時間外勤務をしてまでやりなさい、とは言わない。管理職の言葉を重く受け止めすぎていやしないか。忖度していないか。過重労働で心身を壊したとしても、管理職は「無理してまでやれとは言っていない」と言い逃れをするだろう。

~幸せな人というのは、苦しむことが少ないわけではない。しいて言えば、「苦労」がある人である。全体として言えることは、苦労のない人生、問題のない人生などというものはないということである。悩みと不幸とが関係し、苦労と幸せとが関係する。そう考えるのが人生の正しい見方であると思う。~

苦労しても決して悩むな。苦労は体を使うが、悩みは心を使う。心まで利用されるな。我々は悩まなくてもいい。