読書『「助けて」と言える国へ』Ⅱ

 

やはり教育問題に入ってくる。まず不登校問題である。

不登校がつらいのは本来学校に行くか行かないかということがその子の人生の一部に過ぎないにもかかわらず、その子の全部であるかのように周りや本人が思ってしまうことです。~

不登校の子たちは何であんなに苦しむのか、基準や普通という感覚が強すぎて、自分が外れていると思い込まされてしまうのではないでしょうか。~

不登校については、学校に行けない子ども本人が一番苦しいと思う。親も苦しいだろうな。そして、教師も苦しいのだ。自分が受け持つ子が不登校になると、「自分の学級経営が間違っていたのではないだろうか」「もし自分が担任でなければ、登校できたのではないか」と自分を責め、周囲からの圧力を感じてしまう。そして保健室など別室登校を画策したり、学校外の教育機関と連携を取ったりするなど、多くの負担となる。

本人のせいでもない。親や教師のせいでもない。学校という制度のせいかもしれないのに。

~子どもたちの目が生き生きとしていましたとか興味をもって取り組んでいましたとか、そもそも科学的なエビデンスが何もなくて発表者の主観に過ぎない。研究であれば一部の条件を変えて比較しなくてはいけないもの、洗脳を全員が受けている印象です。~
そして学校が進めている「教育研究」だって何かおかしい。教育論文、研究発表会など、教育の中で盛り上がり、完結しているものばかりだ。