読書9‐13『現代語訳 学問のすすめ』Ⅱ

このレベルの政府を我々が選んでいる

今日から懇談会のために短縮授業。そのためか半日があっという間に過ぎていった。子どもが帰ってから、耕運機を使って畑を耕す。まとまった時間があったらどうしてもやりたかったのだ。15時に職場を離れる。夕方は組合の会議に行くのだ。

~国が辱められる時には、日本国中のみなが命を投げ出しても国の威厳を保とうとする。これが一国の自由独立ということなのだ。~

~天の道理や人の当たり前の情にきちんと合っていることだったら自分の一命をかけて争うのが当然だ。これが国民の為すべき義務というものである。~

「命を投げ出しても」「一命をかけて」という表現が目に付く。昔の人は、命をそんなに大切にしなかったのかも。命よりも国の威厳を保つこと、命よりも天の道理、情との整合性を保つこと。そういった背景があったから、太平洋戦争などの「お国のために」という考えもまかり通ったのかも。

~今この日本においても、このレベルの人民があるから、このレベルの政府があるのだ。~

与党の派閥の裏金問題が起こり、批判の声が高まったのだが、天に唾を吐くようなものだろう。「この方々を選んだのは、自分たちなのだ」と思わなければ、これからも腐敗は続く。(R6.4/19記)

読書9‐13『現代語訳 学問のすすめ』(斎藤孝)

現代語訳 学問のすすめ (ちくま新書)  – 2009/2/9 福澤 諭吉 (著), 斎藤 孝 (翻訳)

視写期間2019年11月26日~30日 視写量5p

~賢い人と愚かな人との違いは学ぶか学ばないかによってできるもの。~

私は学んでいる。本を読み、視写し、ブログにあげることで。もうそれが5年以上になる。

~分限とは天の道理に基づいて人の情けにさからわず、他人の害となることをしないで、自分個人の自由を獲得するということだ。~

天の道理というのは自然の法則のようなものだろうな。今まで自然の法則に逆らってばかりだったような気がする。天の道理など関係なく、自分の努力でなんとでもなると思っていた。それは、思い上がりだったのだ。

~こちらで余っているものは向こうに渡し、向こうで余っているものはこちらにもらう。お互いに教え、学び合い、恥じることも威張ることもない。お互いに便利がいいようにし、お互いの幸福を祈る。~

福沢諭吉の時代は、まだ人々の生活は豊かではなかった。それこそ、こちらで余っているものを渡したり足りないものをもらったりしていたのだと思う。だが、現代は、みんな豊かになった。互いに補い合う関係もなくなってしまったのだろうな。だから、「互いの幸福を祈る」というのは、相手が幸福でなかったら、自分も恩恵がなかった、という意味だ。「互いの幸福を祈る」という感覚は、今の世の中には皆無だろう。(R6.4/18記)

読書9‐12『これでいいのだ!瀬尾ごはん』Ⅱ

手間や面倒を回避することは、自分の力を失うこと

今日もハードな仕事内容。帰宅するや否や、みたらし団子、バナナ、えびせんを立て続けに食べてしまう。そういえば「やめられない、とまらない」というキャッチコピーだったな。せっかくジョギングで帰っても、これでは台無しだ。

~料理が楽しくなったらきっと生きることが楽しくなります。だって自分が生きる原動力を自分の力でコントロールできるんだから。~

私は、給食がない日など、弁当を作る機会があるときは必ず作る。弁当を作るのは自分が休職していたころに養った習慣なのだ。わたしは弁当を作るという技術や能力を手放したくないのだ。

~自分でできることはした方が体は大変でもストレスは減ります。大変と言ってもそれは料理の筋トレだと思って。まずは切れているものを買わないことから始めましょう。もし買うときは、今ある自分の力を失っていくことだと覚悟した方がいい。~

「切れているものを買わない」で思い出したのだが、私はカボチャを一つ買うときに、半分に切ったものを二つ買ってしまう。そう、カボチャを切るのに結構手間がかかるからだ。しかし、それもカボチャを半分に切る力を失っていくことになっている。大変だ、めんどくさい、手間がかかるといってそれを回避することは自分の力を失っていくということなのだ。自分の力を衰えさせないために、弁当作りに限らず、料理に挑戦するべきなのだ。それはストレスを減らすのにも有効なのだ。(R6.4/17記)

読書9‐12『これでいいのだ!瀬尾ごはん』(瀬尾幸子)

食べることは「生きること」そのものであり原動力

これでいいのだ!瀬尾ごはん: 台所まわりの哲学 (ちくま新書)  – 2015/9/7 瀬尾 幸子 (著)

視写期間 2019年11月24日~26日  視写量 3p

ほぼ毎日、料理をするようになって5年以上になる。きっかけは休職である。仕事から距離を置き、家人に代わり料理を進んでするようになった。復帰してからも早く帰宅するのは私であるゆえに、料理の主役の座を譲らない。

~現代の人間は運動をしないまま食べ物をスーパーで手に入れます。何もかも守られ過ぎている中で生き物としての感覚を失ってしまっている気がします。今、うつが社会問題になったりと多くの人がくたびれているけど、こういうことと無関係ではない。みんな自分が「生き物」だっていうことを忘れすぎていますよね。~

外食も、スーパーの総菜も大好きだ。だが、料理をするのは金銭的ハードルがあるからだと思う。「生き物」である自覚があるから料理をしているわけではない。

~食べることは「生きること」そのものであり、原動力。食べて生きていくために、狩りの代わりに食べ物を作るのです。~

食べることは生きること。妙に納得してしまう。だが、「狩り」こそ、自分の仕事、労働だと思っている。それで賃金を得て、食料を調達するのだから。だけど、働き、賃金を得て、食料を買い求め、料理するまでが「狩り」なのだな。とりあえず、明日も働かねばならない。そのためにきちんと食べたい。(R6.4/16記)

 

読書9‐11『がんばると迷惑な人』Ⅻ

一丸となってがんばればよい時代ではない

新しい一週間が始まった。子どもへの指導において、うまくいかないことがある。当然である。そのあり様を自分の責任と感じてしまってはいけない。ただそれを前に、指導するだけである。まだまだ躊躇したり、遠慮したりする自分の弱さがある。決して感情的にならず、淡々と働きかける。それはできるはずだ。

~これからのチームワークに何が必要か。一つは異質な能力です。異質性を軸にしたチームワークで実績を上げるには、それぞれの分野で優れた能力を持つ人が自分の能力を生かしながらチームの目的に貢献することが大切です。~

同質性を求めるのではなく異質性を生かさなければならないとは思う。少し前と比べて、我が国も外国人が増え、いろんな言語が飛び交っている。まさに多様化の時代なのだ。

~もう一つは主役意識です。自分たちが主役になれることが大切なのです。メンバーは自分たちが主役になるとがぜんやる気を出します。メンバーから感謝され、「ヒーローになれる」というところがチームの持つ動機づけの力です。~

同質性ということは誰かが目立ってはいけないということ。学校でも異質なものを排除しようとしてしまいがちだ。全員が主役。だからといってそれがどんなチームなのか、イメージできないけど。

~企業や役所のような組織はまだまだ工業社会型の「同質性を軸にしたチームワーク」で動いています。しかし一丸となってがんばればよい時代ではないのです。チームの場合にも、いかにメンバーから質の高い努力を引き出し、目標へ結びつけるかという発想に切り替えなければなりません。「みんなとともに自分の夢を追いかけなさい」と励まし続けるべきなのです。~

学校はまだまだ団結すること、協調することを子どもに求めてしまっている。とはいえ、チームの目標もあれば、自分の夢もある。その兼ね合いはどうなるのだろう。(R6.4/15記)

 

映画『貴公子』

新しい勧善懲悪ヒーロー出現か

貴公子 2024年4月12日公開-118分-サスペンス/アクション監督 パク・フンジョン  制作国 韓国

今日は長女が孫を連れてくる日。午前中から煮物やカレーを作る。昼飯として助六を食べて、割引チケット最後の一枚をもって、昨日と同じ隣市の商業施設付設シネマに向かった。

韓国映画だから間違いなはない。高評価を裏切らないいい作品だった。主人公はまさに貴公子だ。山田涼介を背を高くしたようなイケメンが、派手なアクションとバイオレンスを繰り広げる。その様はまるで『イコライザー』のデンゼル・ワシントンである。

まったく飽きるところがないだけでなく、格差や人種差別を批判的に描いているのもいい。最後にネタバレのようなシーンがあるのだが、もう少していねいに描いてくれたらなおいいなと思った。

悪い奴をやっつけてくれて気持ちもスッキリだ。新しい勧善懲悪ヒーロー出現か。(R6.4/14記)

映画『プリシラ』

エルビスに興味がある人限定の作品

プリシラ 2024年4月12日公開-113分-ドラマ 監督 ソフィア・コッポラ 制作国 アメリ

歌ボラの後、おにぎりを食べて、割引チケットをもって隣市の商業施設付設シネマに向かう。到着後、座席を抑えてから、カフェで小休止。なんとそこで奥の座席に職場の同僚を見かけたのだが、声はかけないでおく。

なんとなく面白そうだったので本作を選択したが、凡作だった。スーパースターの裏の部分を暴露するような内容を期待していたが全くそうではなかった。というより、やはりエルビスプレスリーの妻の物語であって、プレスリーの物語ではない。この先どうなるのか、というワクワク感を持たせながら、結局心に訴えるものは何もなかった、という作品だ。

ところで、エルビスプリシラの求めを拒否するシーンが何度もあったのだが、あれはいったい何だったのだろう。エルビスが早死にした母親像を求めていたからなのか、外で別の相手を作っていたからなのか。

結局、プリシラにとってエルビスとの結婚は何だったのだろう。エルビスに興味がない人にとっては特に観る価値もない作品。(R6.4/14記)